レゾネイトにお泊りのお客様からよく、美味しいお昼ご飯を食べることの出来る場所を教えて下さいという質問がございます。そこで私がおすすめする、お食事処「鶏家(とりや)」をご紹介いたします。
場所はレゾネイトから約5分の広域農道沿いにあります。
鶏家では、直営牧場で飼育された、豊の軍鶏を食べることが出来ます。田舎作りの大きな梁の下で、ゆっくりとくつろいで食べる軍鶏の炭火焼は絶品です。本物の豊の軍鶏を一度食べると、その美味しさと歯応えに必ずうなるはずです。
おすすめは、しゃもの炭火焼(2620円)のコースです。軍鶏のたたき、炭火焼をメインとしています。
リピーターのお客様も多いということですので、是非一度、お出かけくださいませ。レゾネイトには鶏家のパンフレットもご用意いたしております。
尚、鶏家には、遠くてちょっと行けないという方の為に、鶏家の商品の通信販売も現在考えております。商品が整いましたら、また皆様にご連絡いたします。その時は宜しくお願い致します。(ジョニー)
先日、岡城桜祭りの模様はブログでご紹介しました。その時竹田駅前に「虎姫」の人形が飾られていました。なんだかフィクションのような名前でしたので伝説の人物だろうと流していました。ところが英雄寺の牡丹を調べていると「虎姫」は実在の人物で、その時代の武将の娘らしく、時代に流されながらもそれだけではない人生を送った人だということがわかってきましたので、ちょっとご紹介しようと思います。
「佐久間盛政の娘 虎姫」
1583年明智光秀を討った秀吉は、天下を取るために同じ織田信長に仕えていた柴田勝頼と覇権争いを始めます。勝頼軍に属していた佐久間盛政は敵将中川清秀を討ちました。しかし戦は結局秀吉方の勝利に終わり、盛政は捕らえられ京都宇治川で斬首となります。刑の前秀吉は清秀の子中川秀成を憎むべき佐久間盛政に引き合わせましたが、秀成は「戦での勝ち負けは当たり前のこと、盛政殿は武勇に優れたお方でございますので、憎くは思いません。」と答えました。盛政は、「こんなに立派な方に我が愛する娘を嫁にやりたいものだ」と言い残して刑に処せられました。秀吉はその遺言通り娘の「虎姫」を秀成に嫁がせます。虎姫と秀成は七人の子宝に恵まれたとおり夫婦仲はたいへんよかったようですが姑・性寿院や敵将の娘を殿の夫人として扱わなければならない家臣たちへの心をおもんばかってか秀成は一度も虎姫を竹田に連れてくることはなかったようです。
1610年虎姫は47歳で世を去ります。秀成は息子に虎姫の出家の佐久間から一文字をとって久盛と名付けました。その上、末息子に佐久間姓を名乗らせ佐久間家を復興させました。後に藩主となった久盛は、母の遺志を継いで佐久間盛政の供養寺を建立しています。その寺の名は盛政の法名「英叟晟雄」から英と雄の二字をとって「英雄寺」と名付けられました。
そして英雄寺には佐久間盛政・虎姫・久盛の親子三代の位牌が安置されていて(虎姫の墓所は英雄寺の隣の碧雲寺にあります)戦国の世にあっても敵味方を超えた結びつきを現在に伝えています。
それじゃ又!RAINYでした。
フロントマネージャーのNさんが、ブログネタとして、とっておきの情報を教えてくれました。私も全く知らなかったのですが、レゾネイトから山沿いに見える場所に、大きな山桜が1本あるそうです。花を咲かせるとかなり立派な桜の木になるということ。
標高が高いということと種類の違いによりまだ花は、咲いていないようです。(未確認)
詳しい場所は、後日私が直接行って確認してまいります。
開花予想は、来週のようなので(Nマネージャー談)また報告いたします。(ジョニー)
旧竹田市街をぷらっと歩いてみました。
武家通りを歩いていくと、竹田創生館で甲冑の展示をやっていました。
竹田創生館は竹田の中級武士の屋敷を復元したもので現在は展示場や研修所として使われています。近くには切支丹洞窟礼拝堂跡や歴史資料館などがあります。
これらの甲冑は実際にイベントの時などには着用して使われるものなのですが、なんとメインの材料は「紙」!です。
市内の甲冑作り愛好グループ「甲冑工房 岡の里」の皆様がボランティアで作られたものだそうです。もちろん手作りですが、精巧にできているので近くから見ても紙製だとはなかなか思えません。竹田市広報によると時々甲冑製作講座が開かれてるそうなので模型作り好きなRAINYとしては一度受けたいものであります。
それじゃ又!RAINYでした。
「星空を見ようよプラン」好評受付中!私が星空案内いたします。
最近のコメント