先日、岡城桜祭りの模様はブログでご紹介しました。その時竹田駅前に「虎姫」の人形が飾られていました。なんだかフィクションのような名前でしたので伝説の人物だろうと流していました。ところが英雄寺の牡丹を調べていると「虎姫」は実在の人物で、その時代の武将の娘らしく、時代に流されながらもそれだけではない人生を送った人だということがわかってきましたので、ちょっとご紹介しようと思います。
「佐久間盛政の娘 虎姫」
1583年明智光秀を討った秀吉は、天下を取るために同じ織田信長に仕えていた柴田勝頼と覇権争いを始めます。勝頼軍に属していた佐久間盛政は敵将中川清秀を討ちました。しかし戦は結局秀吉方の勝利に終わり、盛政は捕らえられ京都宇治川で斬首となります。刑の前秀吉は清秀の子中川秀成を憎むべき佐久間盛政に引き合わせましたが、秀成は「戦での勝ち負けは当たり前のこと、盛政殿は武勇に優れたお方でございますので、憎くは思いません。」と答えました。盛政は、「こんなに立派な方に我が愛する娘を嫁にやりたいものだ」と言い残して刑に処せられました。秀吉はその遺言通り娘の「虎姫」を秀成に嫁がせます。虎姫と秀成は七人の子宝に恵まれたとおり夫婦仲はたいへんよかったようですが姑・性寿院や敵将の娘を殿の夫人として扱わなければならない家臣たちへの心をおもんばかってか秀成は一度も虎姫を竹田に連れてくることはなかったようです。
1610年虎姫は47歳で世を去ります。秀成は息子に虎姫の出家の佐久間から一文字をとって久盛と名付けました。その上、末息子に佐久間姓を名乗らせ佐久間家を復興させました。後に藩主となった久盛は、母の遺志を継いで佐久間盛政の供養寺を建立しています。その寺の名は盛政の法名「英叟晟雄」から英と雄の二字をとって「英雄寺」と名付けられました。
そして英雄寺には佐久間盛政・虎姫・久盛の親子三代の位牌が安置されていて(虎姫の墓所は英雄寺の隣の碧雲寺にあります)戦国の世にあっても敵味方を超えた結びつきを現在に伝えています。
それじゃ又!RAINYでした。
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